「有名な純文学の書き出しを知りたい」「さまざまな作品の書き出しをチェックしたい」と考える方も多いでしょう。

意外な書き出しだと一気に引き込まれるし、テンションも上がる。
そこで今回は、純文学の書き出しを名作から紹介します。
冒頭を把握しておけば作品の雰囲気を掴めるため、これから純文学を読みたい場合にも役立てることが可能。
純文学の書き出しパターンについても解説するので、参考にしてください。
純文学の書き出しを名作から紹介|夏目漱石の場合

夏目漱石作品の書き出しについて、以下の3作品から紹介します。
- 草枕
- 吾輩は猫である
- こころ
それぞれについて解説していくので、チェックしていきましょう。
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草枕
夏目漱石の「草枕」(1906年)の書き出しは、以下の通りです。
山路を登りながら、こう考えた。
夏目漱石「草枕」
智に働けば角が立つ。情に棹(さお)させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角(とかく)に人の世は住みにくい。
住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生れて、画が出来る。
「草枕」といえば「智に働けば〜」が有名ですが、実際の書き出しは「山路を登りながら、こう考えた。」から始まります。
ちなみに、「智に働けば角が立つ。情に棹(さお)させば流される。」は、「理知だけで振る舞っていると他人と衝突する。他人に情が深いと足元をすくわれる。」という意味です。
冒頭部分は、人や世間と付き合うことの難しさを表現しています。
個人的にはその後の「住みにくさが高じると〜」の部分が好きで、芸術や趣味の大切さを説かれている気がします。

100年以上前に書かれた生きづらさは今なお顕在!そして共感。
吾輩は猫である
夏目漱石の「吾輩は猫である」(1905年)の書き出しは、以下の通りです。
吾輩は猫である。名前はまだ無い。
夏目漱石「我輩は猫である」
どこで生れたか頓と見当がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた事だけは記憶している。吾輩はここで始めて人間というものを見た。然(しか)もあとで聞くとそれは書生という人間中で一番獰悪(どうあく)な種族であったそうだ。この書生というのは時々我々を捕えて煮て食うという話である。
「吾輩は猫である。名前はまだ無い。」は、「草枕」同様に非常に有名な書き出しです。
猫の目線の文章であることが一発で分かり、グッと引き込まれたという方もいるでしょう。
「書生というのは時々我々を捕えて煮て食うという話」などの猫目線のユーモアが作品全体にあふれているのも特徴です。
また、「吾輩は猫である」は夏目漱石のデビュー作。ここから漱石の文学が始まったのかと思うと感慨深いものがあります。

ラストはちょっと悲しい!でもそれが猫の良いところ。
こころ
夏目漱石の「こころ」(1914年)の書き出しは、以下の通りです。
私ははその人を常に先生と呼んでいた。だからここでもただ先生と書くだけで本名は打ち明けない。これは世間を憚かる遠慮というよりも、その方が私にとって自然だからである。私はその人の記憶を呼び起すごとに、すぐ「先生」といいたくなる。筆を執とっても心持は同じ事である。よそよそしい頭文字などはとても使う気にならない。
夏目漱石「こころ」
高校の現代文でお馴染みの「こころ」の書き出しは、語り手である「私」が先生の呼び名について説明するところから始まります。
「私ははその人を常に先生と呼んでいた。」という短い一節からは、「過去について言及している」「先生は既にいない、もしくは親交がない」などの情報がすぐに見て取れます。
回りくどい説明なしに「私」と「先生」の距離感がつかめるので、短時間で物語に入り込めるのも魅力。

高校生のときに何故「つまらない」と感じたのか不思議なほどに面白い。
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純文学の書き出しを名作から紹介|太宰治の場合

太宰治作品の書き出しについて、以下の2作品から紹介します。
- 人間失格
- 走れメロス
それぞれについて解説していくので、チェックしていきましょう。
人間失格
太宰治の「人間失格」(1948年)の書き出しは、以下の通りです。
私は、その男の写真を三葉、見たことがある。
太宰治「人間失格」
一葉は、その男の、幼年時代、とでも言うべきであろうか、十歳前後かと推定される頃の写真であって、その子供が大勢の女のひとに取りかこまれ、(それは、その子供の姉たち、妹たち、それから、従姉妹たちかと想像される)庭園の池のほとりに、荒い縞の袴をはいて立ち、首を三十度ほど左に傾け、醜く笑っている写真である。
「人間失格」の書き出しとして有名な「恥の多い生涯を送って来ました。」は第一の手記の書き出しとなり、物語の冒頭は3枚の写真からスタート。
人間の変容を写真を使って巧みに紹介しており、文庫本のたった数ページで人生を振り返り、読者にその過程を想像させます。
作品全体で200ページと比較的短め。書き出しだけではなく、全体的に文章が美しいので「きれい過ぎる…」と思っている間に読み終わることでしょう。

この作品で「文学沼にハマった!」という方も多いのでは。かく言う私もその1人です。
走れメロス
太宰治の「走れメロス」(1940年)の書き出しは、以下の通りです。
メロスは激怒した。必ず、かの邪智暴虐(じゃちぼうぎゃく)の王を除かなければならぬと決意した。メロスには政治がわからぬ。メロスは、村の牧人である。笛を吹き、羊と遊んで暮して来た。けれども邪悪に対しては、人一倍に敏感であった。
太宰治「走れメロス」
中学校の国語で学ぶ「走れメロス」ですが、内容を覚えていなくても「メロスは激怒した。」の書き出しを記憶している方もいるでしょう。
冒頭の数行でメロスの使命・属性・性格などが分かり、一気に文脈を把握できます。
元ネタがあるとはいえ「人間失格」と同じ作者とは思えないほど、エネルギーにあふれて前向きな作品です。

「何で走ってたんだっけ?」と思って、大人になってから読み返しました。
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純文学の書き出しを名作から紹介|芥川龍之介の場合

芥川龍之介作品の書き出しについて、以下の2作品から紹介します。
- 羅生門
- 河童
それぞれについて解説していくので、チェックしていきましょう。
羅生門
芥川龍之介の「羅生門」(1915年)の書き出しは、以下の通りです。
ある日の暮方の事である。一人の下人(げにん)が、羅生門(らしょうもん)の下で雨やみを待っていた。
芥川龍之介「羅生門」
広い門の下には、この男のほかに誰もいない。ただ、所々丹塗(にぬり)の剥げた、大きな円柱(まるばしら)に、蟋蟀(きりぎりす)が一匹とまっている。
「今昔物語集」をもとにした「羅生門」の書き出しは、下人が門の下で雨が止むのを待っているシーンから始まります。
「1人」そして「待っている」という状況が、今後絶対何か起こるだろうの予感がする一節。また、蟋蟀描写からも静けさがよく伝わってきます。
高校で1度は学ぶ「羅生門」は物語が短い上に起承転結がはっきりしており、読み直しにもおすすめの作品です。

よく分からないが、中毒性の高い作品だと再読するたびに思います。
河童
芥川龍之介の「河童」(1927年)の書き出しは、以下の通りです。
これは或精神病院の患者、――第二十三号が誰にでもしゃべる話である。彼はもう三十を越しているであらう。が、一見したところはいかにも若々しい狂人である。彼の半生の経験は、――いや、そんなことはどうでもよい。
芥川龍之介「河童」
タイトルとは全然関係ない精神病院からスタートし、「一体どんな展開になるのだろう?」と興味深い「河童」。
しかし、すぐに「いや、そんなことはどうでもよい。」と突き放され、最初から読者は置いてきぼりをくらうという展開です。
序の前には「どうか Kappa と発音して下さい。」という一文がありますが、これは副題に当たります。

マンガ・映画・舞台化もしており、芥川龍之介の代表作の1つです。
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純文学の書き出しパターン

純文学の書き出しパターンは作品によって異なりますが、例えば以下のような種類があります。
- 風景や登場人物の説明から始まる
- 会話から始まる
- 前置きから始まる
- 世の中の真理や名言的な文章から始まる
純文学だから特別な傾向がある訳ではなく、パターン化すると大衆文学と特に変わりがないといえるでしょう。
また、海外文学では物語の書き出し前に、友人や家族に捧げる旨が書かれている場合があります。

さまざまな作品の書き出しを比較してみるのも面白い。
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まとめ

純文学の書き出しで押さえておきたい名作として、以下を紹介しました。
- 夏目漱石の場合(草枕・吾輩は猫である・こころ)
- 太宰治の場合(人間失格・走れメロス)
- 芥川龍之介の場合(羅生門・河童)
書き出しは作品によって異なりますが、風景や登場人物の説明から始まったり、会話からスタートしたりするパターンが見受けられます。
「読みたい本が見つからない」といった場合にも、書き出しから雰囲気をチェックして選書するのがおすすめ。
今回の記事を、読書ライフを楽しむ参考にしてください。
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