「有名な純文学の書き出しを知りたい」「さまざまな作品の書き出しをチェックしたい」と考える方も多いでしょう。
意外な書き出しだと一気に引き込まれるし、テンションも上がる。
そこで今回は、純文学の書き出しを名作から国内編・海外編に分けて紹介します。
冒頭を把握しておけば作品の雰囲気を掴めるため、これから純文学を読みたい場合にも役立てることが可能。
純文学の書き出しパターンについても解説するので、参考にしてください。
純文学の書き出しを名作から紹介【国内編】
純文学の書き出しについて、以下の国内作品から紹介します。
「冒頭だけ覚えているけど、作品名を思い出せない」といった場合にも、ぜひ役立ててください。
夏目漱石の場合
夏目漱石作品の書き出しについて、以下の3作品から紹介します。
それぞれについて解説していくので、チェックしていきましょう。
▼夏目漱石作品の読む順番についてまとめた記事は、こちら。
草枕
夏目漱石の「草枕」(1906年)の書き出しは、以下の通りです。
山路を登りながら、こう考えた。
夏目漱石「草枕」
智に働けば角が立つ。情に棹(さお)させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角(とかく)に人の世は住みにくい。
住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生れて、画が出来る。
「草枕」といえば「智に働けば〜」が有名ですが、実際の書き出しは「山路を登りながら、こう考えた。」から始まります。
ちなみに、「智に働けば角が立つ。情に棹(さお)させば流される。」は、「理知だけで振る舞っていると他人と衝突する。他人に情が深いと足元をすくわれる。」という意味です。
冒頭部分は、人や世間と付き合うことの難しさを表現しています。
個人的にはその後の「住みにくさが高じると〜」の部分が好きで、芸術や趣味の大切さを説かれている気がします。
100年以上前に書かれた生きづらさは今なお顕在!そして共感。
吾輩は猫である
夏目漱石の「吾輩は猫である」(1905年)の書き出しは、以下の通りです。
吾輩は猫である。名前はまだ無い。
夏目漱石「我輩は猫である」
どこで生れたか頓と見当がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた事だけは記憶している。吾輩はここで始めて人間というものを見た。然(しか)もあとで聞くとそれは書生という人間中で一番獰悪(どうあく)な種族であったそうだ。この書生というのは時々我々を捕えて煮て食うという話である。
「吾輩は猫である。名前はまだ無い。」は、「草枕」同様に非常に有名な書き出しです。
猫の目線の文章であることが一発で分かり、グッと引き込まれたという方もいるでしょう。
「書生というのは時々我々を捕えて煮て食うという話」などの猫目線のユーモアが作品全体にあふれているのも特徴です。
また、「吾輩は猫である」は夏目漱石のデビュー作。ここから漱石の文学が始まったのかと思うと感慨深いものがあります。
ラストはちょっと悲しい!でもそれが猫の良いところ。
こころ
夏目漱石の「こころ」(1914年)の書き出しは、以下の通りです。
私ははその人を常に先生と呼んでいた。だからここでもただ先生と書くだけで本名は打ち明けない。これは世間を憚かる遠慮というよりも、その方が私にとって自然だからである。私はその人の記憶を呼び起すごとに、すぐ「先生」といいたくなる。筆を執とっても心持は同じ事である。よそよそしい頭文字などはとても使う気にならない。
夏目漱石「こころ」
高校の現代文でお馴染みの「こころ」の書き出しは、語り手である「私」が先生の呼び名について説明するところから始まります。
「私ははその人を常に先生と呼んでいた。」という短い一節からは、「過去について言及している」「先生は既にいない、もしくは親交がない」などの情報がすぐに見て取れます。
回りくどい説明なしに「私」と「先生」の距離感がつかめるので、短時間で物語に入り込めるのも魅力。
高校生のときに何故「つまらない」と感じたのか不思議なほどに面白い。
\\書き出しから夏目漱石作品が気になった方は、こちらをチェック!//
太宰治の場合
太宰治作品の書き出しについて、以下の2作品から紹介します。
それぞれについて解説していくので、チェックしていきましょう。
人間失格
太宰治の「人間失格」(1948年)の書き出しは、以下の通りです。
私は、その男の写真を三葉、見たことがある。
太宰治「人間失格」
一葉は、その男の、幼年時代、とでも言うべきであろうか、十歳前後かと推定される頃の写真であって、その子供が大勢の女のひとに取りかこまれ、(それは、その子供の姉たち、妹たち、それから、従姉妹たちかと想像される)庭園の池のほとりに、荒い縞の袴をはいて立ち、首を三十度ほど左に傾け、醜く笑っている写真である。
「人間失格」の書き出しとして有名な「恥の多い生涯を送って来ました。」は第一の手記の書き出しとなり、物語の冒頭は3枚の写真からスタート。
人間の変容を写真を使って巧みに紹介しており、文庫本のたった数ページで人生を振り返り、読者にその過程を想像させます。
作品全体で200ページと比較的短め。書き出しだけではなく、全体的に文章が美しいので「きれい過ぎる…」と思っている間に読み終わることでしょう。
この作品で「文学沼にハマった!」という方も多いのでは。かく言う私もその1人です。
走れメロス
太宰治の「走れメロス」(1940年)の書き出しは、以下の通りです。
メロスは激怒した。必ず、かの邪智暴虐(じゃちぼうぎゃく)の王を除かなければならぬと決意した。メロスには政治がわからぬ。メロスは、村の牧人である。笛を吹き、羊と遊んで暮して来た。けれども邪悪に対しては、人一倍に敏感であった。
太宰治「走れメロス」
中学校の国語で学ぶ「走れメロス」ですが、内容を覚えていなくても「メロスは激怒した。」の書き出しを記憶している方もいるでしょう。
冒頭の数行でメロスの使命・属性・性格などが分かり、一気に文脈を把握できます。
元ネタがあるとはいえ「人間失格」と同じ作者とは思えないほど、エネルギーにあふれて前向きな作品です。
「何で走ってたんだっけ?」と思って、大人になってから読み返しました。
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芥川龍之介の場合
芥川龍之介作品の書き出しについて、以下の2作品から紹介します。
それぞれについて解説していくので、チェックしていきましょう。
羅生門
芥川龍之介の「羅生門」(1915年)の書き出しは、以下の通りです。
ある日の暮方の事である。一人の下人(げにん)が、羅生門(らしょうもん)の下で雨やみを待っていた。
芥川龍之介「羅生門」
広い門の下には、この男のほかに誰もいない。ただ、所々丹塗(にぬり)の剥げた、大きな円柱(まるばしら)に、蟋蟀(きりぎりす)が一匹とまっている。
「今昔物語集」をもとにした「羅生門」の書き出しは、下人が門の下で雨が止むのを待っているシーンから始まります。
「1人」そして「待っている」という状況が、今後絶対何か起こるだろうの予感がする一節。また、蟋蟀描写からも静けさがよく伝わってきます。
高校で1度は学ぶ「羅生門」は物語が短い上に起承転結がはっきりしており、読み直しにもおすすめの作品です。
よく分からないが、中毒性の高い作品だと再読するたびに思います。
河童
芥川龍之介の「河童」(1927年)の書き出しは、以下の通りです。
これは或精神病院の患者、――第二十三号が誰にでもしゃべる話である。彼はもう三十を越しているであらう。が、一見したところはいかにも若々しい狂人である。彼の半生の経験は、――いや、そんなことはどうでもよい。
芥川龍之介「河童」
タイトルとは全然関係ない精神病院からスタートし、「一体どんな展開になるのだろう?」と興味深い「河童」。
しかし、すぐに「いや、そんなことはどうでもよい。」と突き放され、最初から読者は置いてきぼりをくらうという展開です。
序の前には「どうか Kappa と発音して下さい。」という一文がありますが、これは副題に当たります。
マンガ・映画・舞台化もしており、芥川龍之介の代表作の1つです。
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川端康成の場合
川端康成作品の書き出しについて、以下の2作品から紹介します。
それぞれについて解説していくので、チェックしていきましょう。
雪国
川端康成の「雪国」(1948年)の書き出しは、以下の通りです。
国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。信号所に汽車が止まった。
川端康成「雪国」
向側の座席から娘が立って来て、島村の前のガラス窓を落とした。雪の冷気が流れ込んだ。娘は窓いっぱいに乗り出して、遠くへ叫ぶように、
「駅長さあん、駅長さあん。」
明りをさげてゆっくり雪を踏んできた男は、襟巻で鼻の上まで包み、耳に帽子の毛皮を垂れていた。
有名な「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。」の書き出しで始まり、風景から人物へ描写が移行していきます。
物語に出てくるトンネルは、群馬県と新潟県の間にある全長9,702mの「清水トンネル」のことです。
雪が降る季節にはトンネルを抜けて湯沢町に入ると、まさに冒頭のように景色が変化し、川端康成が作品を書き上げた頃に完成したばかりでした。
その他にも雪国ならではの文化が出てくるなど、興味深いくだりが多くあります。
参考元:にいがた観光ナビ|「国境のトンネル」開通90周年。川端康成の小説『雪国』の舞台を巡る/湯沢町
女であること
川端康成の「女であること」(1956年)の書き出しは、以下の通りです。
「あっ、しもた。半どんやわ。」
川端康成「女であること」
古い水車の軸の火ばちに、頬杖ついていた母の音子は、大きなからだを泳がすように、廊下へ出た。
電話をかける声が、いままでとうってかわって、生き生きと聞える。
「女であること」は川端康成後期の作品で、前触れなくセリフから始まる書き出しが印象的。
また、関西弁の言葉づかいがさらに強いインパクトを与えており、グッと物語に引き込まれます。
「雪国」や「伊豆の踊子」レベルで知名度のある作品ではありませんが、最初のシーン・最後のシーンともに記憶に残る作品です。
全体的に現在の小説に文体が近いので非常に読みやすいのも特徴。
\\書き出しから川端康成作品が気になった方は、こちらをチェック!//
純文学の書き出しを名作から紹介【海外編】
純文学の書き出しについて、以下の海外作品から紹介します。
海外作品にも興味のある方は、ぜひ参考にしてください。
ヘッセ「春の嵐」
ヘルマン・ヘッセの「春の嵐」(1910年)の書き出しは、以下の通りです。
自分の一生を外部から回顧してみると、特に幸福には見えない。しかし、迷いは多かったけれど、不幸だったとは、なおさらいえない。あまり幸不幸をとやこう言うのは、結局まったく愚かしいことである。なぜなら、私の一生の最も不幸なときでも、それを捨ててしまうことは、すべての楽しかったときを捨てるよりも、つらく思われるのだから。
ヘルマン・ヘッセ「春の嵐」
「こんな世の中の真理にして名言を1行目から書いて大丈夫?」と感動とともに不安すら覚える書き出しの「春の嵐」。
しかし、この書き出しを読んだからこそ作者を信用して最後まで作品を読めるというものです。
30代ぐらいになってから読み返すと、冒頭だけでもちょっと泣きそうになります。
たまに猛烈にヘッセの繊細さと優しさに触れたくなることがある。
サン=テグジュペリ「人間の土地」
サン=テグジュペリの「人間の土地」(1939年)の書き出しは、以下の通りです。
ぼくら人間について、大地が、万巻の書より多くを教える。理由は、大地が人間に抵抗するがためだ。人間というのは、障害物に対して戦う場合に、はじめて実力を発揮するものなのだ。
サン=テグジュペリ「人間の土地」
「星の王子さま」でも有名なサン=テグジュペリの「人間の土地」は、人間や自然について力強く語る書き出しでスタート。
飛行機でサハラ砂漠に不時着した物語となっていますが、読了後に再びこの冒頭を読むと感慨深いものがあります。
書き出しとセットにしたいのが物語の締めの文章で、サン=テグジュペリの人間観に感動を覚えます。
「勇気が出るとはまさに」を実感できる1冊。
\\書き出しから川作品が気になった方は、こちらをチェック!//
純文学の書き出しパターン
純文学の書き出しパターンは作品によって異なりますが、例えば以下のような種類があります。
純文学だから特別な傾向がある訳ではなく、パターン化すると大衆文学と特に変わりがないといえるでしょう。
また、海外文学では物語の書き出し前に、友人や家族に捧げる旨が書かれている場合があります。
さまざまな作品の書き出しを比較してみるのも面白い。
▼純文学についてまとめたその他の記事は、こちら。
まとめ
純文学の書き出しで押さえておきたい名作として、以下を紹介しました。
- 夏目漱石の場合(草枕・吾輩は猫である・こころ)
- 太宰治の場合(人間失格・走れメロス)
- 芥川龍之介の場合(羅生門・河童)
- 川端康成の場合(雪国・女であること)
書き出しは作品によって異なりますが、風景や登場人物の説明から始まったり、会話からスタートしたりするパターンが見受けられます。
「読みたい本が見つからない」といった場合にも、書き出しから雰囲気をチェックして選書するのがおすすめ。
今回の記事を、読書ライフを楽しむ参考にしてください。
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